*フクロウと出納帳*

しあわせのためのお金の話

ホリー・ガーデン、レビュー。“余分な時間ほど美しい時間はない”

この夏、ドラクエばかりやっていたのです。

 

そのせいで

他のことをする時間がなくって

ドラマも、映画も、小説も、

溜まりまくってしまってます。苦

 

とりあえず、

なんと!6月に買って読みかけていた

江國香織さんのホリー・ガーデンを読み終えました。

 

じつは…

半分くらい読んだところでドラクエが発売してしまい、

ドラクエが終わる頃にはすっかり内容を忘れていたので、最初から読み直したのです。笑

 

江國香織さんの本の中では

そんなに有名どころではないと思う、

ホリー・ガーデン。

 

どんなお話かの前に。

あとがきに書かれている作者江國さんの言葉で

 

余分なこと、無駄なこと、役に立たないこと。

そういうものばかりでできている小説が書きたかった。

 

と、書かれていました。

 

たしかに、すべて読み終わって

ものすごく大きな事件が起こるわけでもなく

ものすごく大きな変化や成長があるわけでもない。

 

メガネ屋さんで働いている、かわいらしい果歩

高校の美術教師をやっている果歩の親友、静枝。

 

このふたりの視点から、物語は描かれていきます。

 

 

高校までずっと同級生だった二人は幼馴染。

お互いなにもかも知っていて、知りすぎてしまった距離感なのです。

 

この二人を近くで見ている中野(果歩の仕事の後輩の男の子)からは

手を出せないほど濃密なくせに、ひどく不安で緊張した空気。

を感じさせる果歩と静枝の関係性。

 

「友達なんだから、はっきり言ってあげるべきだと思いますよ。」

と言った中野に対して、静枝は

こいつ、ばかじゃないかしら、と静枝は思った。

少なくとも私たちは、何でもぶつけあえばいいなどという単純なやり方で、友情をあつかったことは一度もない。

 と、いっています。

 

そして果歩は

同じく中野から

「ああ、静枝さん、わりと攻撃的に物を言ったりするもんね」

と言われたとき

中野ときたら、まったく何もわかってない。耐えられないのは攻撃されることではなく、むしろ攻撃されないことなのだ。静枝に心配されること、そしてたぶん、同情されること。

 というのです。

 

  …。

 

わかりますか!?笑

女性ならわかるはず!!笑

女同士の友情ってこういう感じなのです!!

 

どこまで親しくなっても、自分のテリトリーみたいなものを張るのです。そして、お互いがテリトリーの境界線を、暗黙でわかっているのです。

 

だから、中野くんは

静枝にばかじゃないかしらと思われてしまうのです。笑

男の子にはわからないものなんでしょう。

 

そして、果歩がいう、静枝に心配されて同情されること。

これが耐えられないっていう感情。いっそ嫌味をいって笑い飛ばして欲しい。

かわいそうと思われることって、他人や知り合い程度の人からなら、心配してくれてありがとね、と思えるのに、

近過ぎる女友達だけはだめなんだって。耐えられないんだって。笑

 

 

果歩は昔付き合っていた津久井という男と別れたことで、

いろんな感情を引きずっています。

苦しくて辛い思いをしたせいで、なにか虚無感に囚われているような。

現在進行形で不倫をしている静枝を見て、そして幸せだと言い張る静枝を見て、果歩はこう思うのです。

余分な好意が人を感情的にする。 

恋などという厄介なものから、さっさと足を洗えてよかったと思う。

 

一方、静枝は芹沢(不倫相手)との関係は幸せなんだと、言い聞かせるのです。

腹立たしいのは、孤独がろうとする気持ちの弱さだった。好きな男と幾ばくかの時間を共有する、その幸福がすべてなのだ。ずっと前にそう決めた。静枝は、不幸がることだけは、どうしても自分に許せなかった。

 もちろん、静枝自身で芹沢との関係が幸せばかりではないことをわかっているし、果歩も幸せよと笑う静枝の本当の感情まで気付いているのです。

 

 

女同士は深入りしてしまうと、

愛情と、嫉妬と、信頼と、苛立ち。

そんなものがぐちゃぐちゃに混ぜ込まれた友情が成り立ってしまうのです。

 

それはもう、時に吐き気がするほど濃ゆいのです。笑

 

もう一度、あとがきに戻ると

作者江國香織さんは

余分な時間ほど美しい時間はないと思っています。そうして、これはたくさんの余分な時間を共有してきた二人の物語です。二人と二人をめぐる人々の、日々の余分の物語。

と書かれています。

 

無駄なものばかりの日々。

余計なものの積み重ね。

そうやって生きていて

ゆるくじんわりと過ぎていく。

ほとんど誰もが、それが当たり前なのです。

 

特別なことも、とびきりなことだって

日常にはないのです。

 

余分で、無駄で、そんな時間を重ねていくことが

本当に人生の“余分“で”無駄”だとは思わないのです。

余分で無駄な日常こそが、人生なんだと思うのです。

 

それが、美しいのでしょう。

 

 

本日もお付き合いいただき

ありがとうございました。