*フクロウと出納帳*

しあわせのためのお金の話

号泣する準備はできていた。私はたぶん泣き出すべきだったのだ。

また読みましたよ。

江國香織先生の小説。

 

直木賞受賞。

号泣する準備はできていた

12篇のお話が書かれている短編集です。

 

江國香織先生の小説の中で

題名がいちばん好き。

そして、かなり江國先生らしい文章だと思いました。

 

 

 

号泣する準備ができていた…とは。

 

どういう心情なのだろうと思ったのです。

 

全編を読んでみても

はらはらと思わず泣いてしまう女の人はいても

号泣している女の人はいませんでした。

 

江國先生のあとがきでは

悲しみを通過するとき、それがどんなにふいうちの悲しみであろうと、

その人には、たぶん、号泣する準備ができていた。

喪失するためには所有が必要で、

少なくとも確かにここにあったと疑いもなく思える心持ちが必要。

と書いています。

 

生きているうちに

どこでそうなってしまったのか分からないほど

ふいに行き詰まるようなことがあるものです。

 

極端に言うならば

昨日までは自由で楽しくて無限に思えるような広がりを見せていた世界だとしても

今日いきなり四方行き止まりにハマってしまっていたことだってあったりするのです。

 

そんなとき

ホントは号泣してしまえば、もっと楽になれるかもしれない。

 

ただ、女の人はその行き止まりに立ち

背筋を伸ばし、毅然とした態度で

一瞬ですべての感情を超越したかのように

笑顔をつくったりする。

 

 

たとえば

とんでもなく愛して、愛されていた男に

他の女と寝てしまった、と言って謝られたら。

 

たぶん、おそらくですけど

そこで号泣してしまえる女の人は多くはないような気がするのです。

 

お話の中での女の人も

泣くことはなかったです。

 

私は泣くべきだったのかもしれない。

私の心臓はあのとき一部分はっきり死んだと思う。

さびしさのあまりねじ切れて。

 

悲しみと泣くことは同じようで

似て非なるものなのかもしれないですね。

 

なにかを手にするということは

いずれは失うということ。

 

それを知っている女の人は

 

失うかもしれない準備を

無意識にでもしているのかもしれない。

 

だから、

突然の悲しみに見舞われたとしても

号泣することはないのかもしれない。

 

女の強さは

そんな覚悟の上にあるのかも。

 

本日もお付き合いいただき

ありがとうございました。